己が櫛枝実乃梨という少女に淡い恋心を抱いていた高校時代ははるか昔のことで、
結局はその想いも実ることなく過ぎ去ってしまった。
高校を卒業した俺は無事に大学に進み、泰子の面倒を見て、朝食を作り、掃除をし、
そして同じ大学に進んだ大河と共に過ごす毎日。
いつの間にか彼女は俺の生活の一部に溶け込んでいたのだ。

俺は彼女と居ることで、言葉で言い表せないような安心感、生活臭というものを感じていた。
それは彼女も同じだったようで、いつの間にか気が付いたら肉体関係を持ってしまい、
その居心地のよさに漫然と日々を重ねてしまっていた。


―――そして、気が付いたときには子供が出来てしまったのだ。

当然といえば当然か。泰子が出勤している間にあれだけ見境なくやっていれば。
しかし、あの小さい体でよくも妊娠できたものだと感心してしまう。
実に女体の神秘というのは男には理解し難いものである。
まあ出来てしまったものはしかたない。男らしく責任を取ろうと結婚を申し込んだのはいいが、
「犬のくせに、結婚してくれですって?生意気なこといってんじゃないわよ」
照れてるのか素直になれないのか、どうにも快い返事を聞かせてくれなかったのだ。

だがそのときの俺は熱くなってしまって、結局口論の末にすっかり険悪な雰囲気になってしまった。
彼女はすっかり機嫌を損ねてしまったようで、もはや取り付く島も無い。

「子供は私が一人で育てる。あんたなんかに頼らないんだから」
何だと?俺の、俺の可愛い子供が、奴一人の手で育てられるだと?
想像するだけでぞっとする。そう、俺が初めて来た時のマンションの部屋を想像すればいい。
あんな不潔で劣悪な環境に自分の子供が置かれることは絶対に許してはならないのだ。

「頼む、それだけはやめてくれ……俺の子供をみすみす虐待させるわけにはいかないんだ……」
「虐待って何よ!私がそんな母親になるとでも思ってるの?」
あの汚さは絶対に虐待ものだと思うのだがどうだろうか。
「お願いだ、結婚してくれなくてもいい、せめて子供の養育だけは俺にやらせてくれ……」
「結婚してくれなくてもいいって何よ?いつもする時愛してるって言ってたのは嘘だったの?」
……確かに言った。嘘ではない。
「嘘じゃねえよ、愛してるよ!でも、お前が結婚したくないって言ったじゃねえか!」
「結婚したくないなんて言ってないじゃない!私だって、その……」
最後の方は少し口ごもっている。どうやら少し態度が軟化してきたらしい。
ここが押しどころだ。もはや恥も外聞も無い。何せ今は一世一代の大勝負の時なのだ。
ええい、もうどうにでもなれ。
「飯は俺が作る、洗濯も掃除も俺がする、だから子供を俺にも育てさせてくれ!」

その後も拝み倒し、なだめ、懇願したことにより、
彼女はようやく機嫌を直してくれて俺の話を真剣に聞いてくれるようになったのだ。
本当に、情けないのだった。どうしようもなく、己は犬だった。
その時の俺の筆舌しがたい労苦は敢えて語るまい。

そうして―――己と『彼女』は結ばれた。




「……」
気がつくと、自分はいつもの布団の中にいた。
外から聞こえるのは雀のさえずり。いつもの朝の光景だ。
「夢、か……」
なんて夢を見てしまったんだ、俺は……

「おはよう。ねえ、大丈夫?ずいぶん顔色悪いけど……」
そう言って俺を覗き込むのは見慣れた顔。小柄な、非常に小柄な少女。
「いや、なんでもない。ちょっと悪夢を見てただけだ。」
そう、悪夢だったよ、あれは。
しかし今は夢を気にしている場合ではない。
洗濯と掃除をし、我が家の飢えたる住人のために朝食を作らなければならないのだから。

「あ、私もお掃除手伝うから!」
そう言うと掃除機を持ちだして部屋を動き回る少女。
その部屋に居るのは、起きたばかりでいまだ寝ぼけ眼の母親。
俺はそのいつもの風景を見て、平和だなあ……と幸せをかみしめながら、
最近急速に目つきが悪くなってきた少女の将来に一抹の不安を感じていたのだった。




※このSSは以前別所に投稿したものの再掲です。


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