「来週は期末試験だ。40点以下だった者には追試と宿題を課すから、そのつもりでいるように」
そんな捨て台詞を残して退出する数学教師。
ぬぬぬぬぬ……困った、これは困ってしまったぞ。
前回のテストでは何とか赤点を免れたものの、かなり危うい点数だったので
今回はもしかしたら追試と宿題の二連荘を食らってしまうかもしれないのである。
松澤よ、お前は遠い地で何を思っているのだろうか。
頭の良いお前ならば、テストなどという地球人の苦行など物ともしないはずであろうに。

休み時間。
「なあ、田村……」
「ええい、今の俺に話しかけるな!俺は今、猛烈に数学の勉強をするべく燃えているのだ!」
話しかけてきた小森と橋本を鋼鉄の意志で追い払う。
勇んで授業の要点を復習すべく、ノートを開いたものの、
「読めねえ……」
何ですかこれは?これが俺のノートだったのか?
字が汚い上に、要点を絞らず書き散らしているせいでひどく分かりにくい。
おまけにノートの端のほうには北条時宗の似顔絵がしっかりと鎮座しているのだ。
おお、俺って意外と絵が上手だったんだなあ……と感慨に耽っていると、
「田村、どうしたの?さっきからノート見てウンウン唸って」
「うおっ!!」
突然俺の顔を覗き込んできた相馬。顔が近すぎですよ。
いかん、これは心臓に悪い。慌てて離れたものの、まだ心臓がバクバクいっている。
「顔も赤くなってきてるし……体調でも悪いの?」
ばかやろう、俺だって男だぞ。これは男の正常な生理現象なのだ。
……と相馬に言う度胸もないので、この場はこっそり心の奥底にとどめておいたのだけど。

「ふーん……数学で赤点取りそうだったから勉強しようとしたけど、
 全然分からなくて困って悩んでウンウン唸っていた、と」
微妙に違うが流しておく。断じて俺は全然わからないほどバカではない。
「じゃ、じゃあ……」
そう言うと途端にもじもじしだした相馬。
おいおい、今度はお前の顔が赤くなってきているではないか。
「あのね、田村、だったら一緒に勉強しない?」

一緒に『勉強』……?
ああ、松澤さま。雪貞は一瞬淫らな想像をしてしまいました。
こんな不誠実な私をどうか許してください。
「ねえ、どうかな……?」
とはいえこの状況では相馬の誘いは天の助けだ。
なにせ相馬は不登校の身でありながらこの高校を一発合格した女である。
一緒に勉強するだけでは浮気にも当たるまいと自分に言い訳して、
相馬の誘いを快諾することにした。
「じゃあ、あたしの家でやらない?なるべく早いほうがいいし、今日とか……ヒマ?」
「お、おう、ヒ、ヒマだぞ……」
「そう、よかった……あ、授業始まるみたいだからまた後でね……」

とっさのことで気が動転して何も考えずにOKしてしまったが……
よく考えると、俺は相馬の家にお呼ばれされてしまったようだ。
女の子の部屋に招待される。ああ、なんて甘美なシチュエーションなのだろう。
もしや、「あのね、今日、うちの両親いないんだ……」などという裏設定があるのではないだろうか……
いやいやいかん、俺には松澤がいる。
先ほど一緒に勉強するだけなら浮気ではないと自分に言い訳したのではなかったか。
――松澤よ、これくらいなら……本当に大丈夫だよな?

さてさて、運命の放課後。この掃除が終われば俺は相馬のお家にご招待だ。
それを思うと今から緊張してしまって、授業も何も頭に入るものではなかったのだ。
ああ、落ち着け俺。とりあえず紅茶でも飲んで気を静めようじゃないか。
自販機で紅茶を買って飲んでいたところ、後ろから俺の肩を叩く小森。
「なあ、田村。この後相馬さんと一緒にお勉強なんだろ?」
「な……何故そのことを!お前もスパイだったのか!」
恐ろしい奴め。今俺が思い悩んでいた事を的確に指摘するとは。
「いやいや、さっき教室で話してたじゃん。で、結局相馬さんとはどこまでいったんだ?」
ドコマデイッタンダ。
ああ、それなりに行きましたよ。ゲーセンとか、本屋とか、カラオケボックスとか……
でもゲーセンとカラオケは相馬が嫌がって結局入らなかったけどな……
「とぼけるなって田村ちゃん。どうなの?もうやっちゃったの?」
「……なんて下世話なことを聞くのだ!橋本よ、お前も言ってやれ!
 眼鏡キャラはこういうときは暴走する茶髪男をたしなめる役のはずだ!」
そう言って橋本に最後の望みを託すものの、
「田村、相馬さんとはもうやっちゃったのか?」
……橋本、お前もか。
ええい、そもそも俺と相馬は付き合ってなどいないのだ。
だいいち俺には遠距離恋愛中の松澤小巻という可愛い彼女がいる。
そのことを両人に理解して頂くべく説明申し上げたものの、
「でも田村、毎日相馬さんに愛妻弁当作ってもらってるじゃん」
あれは相馬が作りたいと言って、断る理由も無いから貰っているのだ。
「その割に俺らが分けてくれって言っても全然分けてくれないじゃん」
頼んでいないとはいえ相馬がせっかく作ってくれたのだ、粗末にするわけにはいかないだろう?
「今日だって相馬さんの家に誘われたんだろ?」
あれは……そう、ただ一緒に勉強するだけだ。やましいことなど何もないぞ?

「ふーん、そっか……。分かった、田村って今流行のツンデレってやつだろ」
「おお、さすがはしもっちゃん、冴えてるじゃん」
お、俺がツンデレですと?
「ツンデレ男とツンドラ女王……。うーん、考えてみると相性ぴったりだなあ」
「待て、何度も言うけど俺にはちゃんと彼女がいるのであってだな……」
そして勝手に人をツンデレと属性付けしてくれるな、橋本よ。
「なあ田村、結局はその中学時代の彼女に操を立ててるだけで、相馬さんのことが嫌いなわけじゃないんだろ?
 あんな綺麗な子に好かれて何が不満なんだ?男なら誰もが羨む状況じゃないか」
「そうそう、絶対相馬さん田村のこと好きなんだって。男なら押し倒しちゃえよ」
相馬に好かれて不満なことなどあるはずもない。むしろ男としては非常に幸福なのだ。
それに小森に言われるまでもなく、相馬が俺に好意を持っているのは百も承知だ。
そう、忘れもしない、あの悪の権化に無理やり俺の純潔を奪われたあの雨の日。
……やめておこう。思い出すと変な気分になってしまいそうだ。
「とにかく、家に呼ぶってことは相馬さんも勝負かけてくるってことだろ?
 もし上手いこといったら報告よろしく!」
俺のピュアハートをかき乱すだけかき乱して去っていく小森と橋本。
人のことを言う前に自分のことを考えやがれ。いっそお前ら二人で付き合ってしまえ。

「田村、おそ〜い。ずっと待ってたんだから」
教室に帰るなりちょっと拗ねた顔で文句を言ってくる相馬。
拗ねた顔も可愛いじゃないか、と不覚にもドキッとしてしまう。
いかんいかん、これも全て小森と橋本が変なことを言ったせいだ。
とにかくこんな姿を相馬に悟られてはいけない。できるだけ平静を装って、
「悪い、ちょっと小森と橋本にひっかかって」
「まあいいけど。じゃあ、帰ろっか。田村は歩きだよね。また自転車の後ろに乗る?」
いやいや、それはさすがに俺の良心が許さない。
あの時は(相馬のせいで)足を捻挫していたし、そのせいで悪の権化と認識していたこともあって
罪悪感無く相馬を肉体労働の懲罰にかけることができたのだが、
相馬を一人の女の子として意識してしまった今となってはそんなことはできやしない。
結局俺が自転車を漕ぎ、相馬が後ろに乗ることになったのだが、
どうやら相馬は後ろに乗った経験が無いらしく、怖がって必要以上に体を押し付けてくる。
段差を通ったり、ブレーキをかけるたびに後ろから「きゃっ」と聞こえてくる声が
何とも可愛らしくて、庇護欲を駆り立てられてきて仕方が無い。
それに、さっきから背中に感じるやわらかい感触は、もしかして……

……駄目だ。今日の俺は何でこんなにおかしいんだ。
平常心だ、平常心を保つのだ田村雪貞よ。お前には松澤がいるのだろう?

「田村、次の角を左に曲がって」
「……おう」
余計なことは何も考えるな。雑念が入ったら負けかなと思ってる。
「ねえ、田村、あのさ……」
ああ、会話で背中の感触を紛らわすのもいいかもしれないな。
「こうしてるとあたしたち、周りからは恋人同士みたいに見られてるのかな……」
キキッ!!
突然の水爆級発言に自転車を急停止させる。
ああ、ごめんなさい。あなたのその発言はついに俺の股間にクリティカルヒットです。
これ以上はもう漕げません。
「な、な、なんちゅうことを言うのだお主は……」
「や、や〜ね〜、ちょっとした冗談だから……」
そう言って苦笑いする相馬。いやいや、あれは冗談には聞こえなかったぞ。

相馬さんよ、俺だって男ですよ。そんなことを言われて平常心でいられるはずがないのです。
そういえば以前誰かが相馬を評して「俺様的美的ランクダブルS」と言っていたが、
確かにお世辞抜きに相馬は美女である。
そんな相馬に胸を押し付けられ、その上ストレートに好意を向けられて反応しない男などいるのだろうか。
「ねえ、田村、自転車乗らないの?もしかして怒った……?」
「いや、怒っているのではなく、ちょっと自転車を漕ぐのに支障が出るほど体の調子が悪いのだ……」
主に下半身の一部分が。
「ええい、早く治れ!こいつめ、めっ、めっ!」
「だ、大丈夫……?」
……駄目だ。相馬にあてられて茹だった例のブツは容易に静まってはくれない。
仕方なく自転車を引いて歩きながら目的地に向かうのだが……ああ、気まずい……
そんな微妙な雰囲気の中、俺たちは相馬の家に到着したのであった。

「あらあら、あなたが田村くんね。娘がいつもお世話になってます」
相馬によく似たご婦人が玄関で俺たちを出迎える。
着替えるために部屋に戻った相馬をよそに、ご婦人は俺をリビングに連れ込んで、
根掘り葉掘りと俺の心の内面に踏み込んだ質問をしてくるのだ。
曰く、俺と相馬の出会い、学校での様子、今まで相馬と出かけた行き先などなど……
なんだか必要以上に俺に対して興味津々なのは気のせいなのでしょうか?

「ちょっとお母さん、田村に変なこと聞いてるんじゃないでしょうね?」
着替えて戻ってきた相馬。だがしかし、その服装は……
「あら広香ちゃん、おめかししちゃって、張り切ってるのね」
そう、女の子の服装に詳しくない俺でも分かるような余所行きの服を着ているのだ。
しかも、そのスカートの短さは純情ボーイの俺には目の毒だぜ……
「もう、お母さん、変なこと言わないで!」
冷やかされて照れているのか相馬も顔を赤い。
「広香ったら、家でよく田村くんのことを話してくれるのよ、
 田村くんと一緒にお弁当食べたとか、色々お話したとか」
うっ……そう言われると逆にこっちが恥ずかしい。
ここは「そ、そんなことないんだから!」と否定するのがお前のキャラだろう、と相馬を見るも、
予想に反して「えへへ……」とにやけきった顔でだらしなく頬を緩めている。
あれは相馬母の言うことを完全肯定している顔じゃないか。
学校ではツンドラ女王と呼ばれるほど孤高に振舞っている相馬だが、
実はこの家での姿が本来の相馬なのだろうな……と思うのだった。

「じゃあ、田村……入っていいよ……」
相馬母の質問攻めを切り抜けて、ようやく相馬ルームにご招待。
中を見渡すと……まさに「女の子の部屋」と形容するしかない。
同じ机でも、相馬が使ってる机は何故か違って見えてくる。
男ばかりの三兄弟で色気もへったくれもない我が家と比べると、その醸し出す雰囲気は雲泥の差である。

「そういえば田村、さっきは調子悪そうだったけど大丈夫?どこか打ったの?ちょっと見せてみて」
調子が悪いというと……
おお、さっきの股間の不調(というか好調)をごまかした言い訳のことか。
見せてみてというが、いきなり本当のことを言ってズボンを下げればただの変態だ。
考え込んでいる間に相馬は救急箱を持ってきているし、どうやら俺の言い訳を本気にしているらしい。
「いや、いい、大丈夫だ、何でもないから」
「そんなことないでしょ、打撲して内出血でもしてたら大変じゃない」
そう言ってこっちに近付いてくる。
ま、まずい、さっきのことを思い出してまた股間が大変なことに……
思わずポケットに手を入れて股間を押さえたものの、相馬は目ざとくそれを見つけて
「そこが痛いの?」と手を伸ばしてくるのだ。
待て、今の俺に触るな!こ、こうなったら……
「きゃー、広香ちゃんったらだいたーん。男の子のズボンを脱がせようとするなんて〜」
「……………!!!」
おお、この冗談は決まったか。相馬が見事に真っ赤になった。

「な、何てこと言うのよ!あたしはそんな、脱がせようだなんて!」
「HAHAHA、照れるな相馬、だがいきなり脱がせるのはちと先走りすぎだぞ?」
そう言うとますます相馬は顔を赤くして、クッションでポカポカと俺を叩いてくる。
「もう、田村のバカ、バカ、バカ……」
そんな相馬の反応が何と言うか可愛らしくて、笑いながら叩かれるままにしていたのだが、
ふと脇を見ると――――ドアが開いたままだったのだ。
そしてその向こうには、ニヤニヤと遠巻きに俺たちを見ている相馬母の姿が。
「あらあら、ごめんなさいね、たまたまドアが開いていたから見えちゃったの」
そしてオホホと作り笑いをするご婦人。
きゃー。さっきのじゃれあっていた様子を見られてたんですか。は、恥ずかしい……
ああ、本当に顔から火が出そうですよ……
「あらいやだ、気が回らなくてごめんね。お母さんちょっと出かけてくるから、
 二時間後に戻ってくるからね、じゃあごゆっくり〜」
そう言うと、相馬母は疾風の如くその場を立ち去っていってしまった。
これは、気を回されたってことか……?

部屋に取り残された俺たち二人。
こうもあからさまに気を遣われると余計に気恥ずかしいではないか。
相馬の顔は真っ赤だが……多分俺の顔も同じくらい真っ赤になっているのだと思う。
「見られてたね……もしかして誤解されちゃったかな?」
聞くまでもなかろう。ありゃあ完全に俺と相馬の関係を誤解してるぞ。
しかし相馬よ、そんなに嬉しそうにニヤニヤとしているとは……
これはあれですか、誤解されたことが嬉しいと受け取っていいんですね?
俺は自惚れていいんですね?

「お母さん、二時間後に戻ってくるって言ってたけど、
 二時間であたしたちが何かするって思ったのかな……」
――――!!!
い、今何と言いましたか相馬さん。その思わせぶりな台詞は……
そういえば、先ほど小森に言われた言葉を思い出す。
『家に呼ぶってことは相馬さんも勝負かけてくるってことだろ?』
勝負をかけてくる。
最初はせいぜい健全な誘惑を仕掛けてくる程度だと踏んでいたのだが、
どうやら俺は相馬の考えている『勝負』の意味を読み違えていたのかもしれない。
「……じゃあ田村、しよっか……」
ああ、やはり相馬はその気なのか……
相馬広香……恐ろしい子!
こんな誘惑をされたら……俺は抗えないではないか。
男とはなんて弱い生き物なのだろう。
松澤よ、許してくれ、田村雪貞の純潔は今日散ります……

こ、こういう時は男から先に脱ぐべきなんだろうか?
それとも、相馬が脱ぐのを待っているべきなんだろうか?
俺がそんな悩みを巡らせている間、相馬の様子を伺ってみると……
小さいテーブルを持ってきて、その上に教科書を出していた。
ありゃりゃ?これは、もしかして……
「田村、なにぼんやりしてるの?勉強するんでしょ?」
なんですと?じゃあ、さっき言っていた「しよっか」ってのは勉強のことですか?
「ほら、早く始めないと時間無くなるよ。お母さんも二時間経ったら戻ってくるし」
そんな、俺はなんて恥ずかしい勘違いを……
しかも、松澤という彼女がいながら、浮気に心を躍らせていたなんて……
俺は、俺は、なんて不実な男なんだ……!
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁ―――――――っ!!!」
恥ずかしさと自責の念に耐えられず、奇声を上げて床をのた打ち回る。
「ちょっと田村、いきなりどうしたの?」
ああ、相馬が俺を見下ろし何か言っている……
この哀れで不実な男を心配なんかしないでください。俺を思う存分罵ってください。
のた打ち回りながら見上げた相馬の姿は……いつぞや見た黒パンツであった。

「田村、落ち着いた?」
床を転げまわった末に、壁に足の指をぶつけて痛くて動けなくなったことで、
ようやく俺は落ち着きを取り戻すことが出来た。
とりあえず相馬には「過去のトラウマが発動した」と言い訳しておいたが。
ああ、情けない……
ここは気を取り直して勉強だ。
そもそも俺は何故相馬の家に来たのだ?それは勉強を一緒にするためだろう?
「ふっ、今の俺は一切の雑念を持たぬ数学マシーンと化したのだ……」
そう自分に言い聞かせ、煩悩色欲を振り払うために数学に打ち込むことにした。


――――勉強を始めてどれだけ経っただろうか。
疲れた。飽きた。もう数字と文字だらけの世界は勘弁してください。
俺がこんな状態であるにもかかわらず、相馬は真面目に勉強を続けているし、
やはり相馬は頭の出来が違うのだろうかと眺めていたら――えらいことに気がついた。
相馬の黒パンツが見えている。
ただでさえ短いスカートなのに、相馬は自分の部屋だということで油断しているのか、
スカートがめくれ上がってふとももが完全オープンである。
黒パンツも相馬が微妙に座り位置を変えるたびに見えたり見えなかったり……なんて目の毒なんだ。

「田村、さっきからずっと進んでないよ。分からないところがあるの?」
うおっ、黒パンツに気をとられて勉強がおろそかになっていたか。
「そこが分からないの?いい、これは区間の中に軸があるから場合分けをしてね……」
そう言って座る体勢を変えてきた相馬。
お、おい、そんな座り方をしたら黒パンツが丸見えですよ?
「だから、最大値をとるのは左端か右端だから、どっちが大きいかで場合分けして……」
解き方は分かったから、早く黒パンツを隠せ、女の子がはしたないですよ!
「ちょっと田村、聞いてる?さっきからどこ見てるのよ!」
どこを見てるって、そりゃあ、一箇所しか……
俺の目線の先を追って――ようやく俺が何を見ていたかに気付いたようだ。
相馬は顔を赤くして、俯いたかと思うと、
「田村の、エッチ……」
か細い声で、そう呟いたのだ。

…………なんですか、このあからさまに『女の子』な態度は。
普段のお前ならば、ここは怒って文句をぶつけてくる場面ではなかったのか?
やばい。相馬が可愛すぎる。このままでは理性を保つ自信がありませんよ。
こ、これはいかん。一度外の空気を吸ってこなければ!
「悪い、相馬、ちょっと用事を思い出してしまった!」
「ちょっと、田村、いきなりどうしたの?」
この場から一旦離れるべく、慌てて部屋を出ようとしたのだが……おわわっ!
手首をつかまれたせいで、立ち上がってすぐに相馬を巻き込んで転んでしまった。
「きゃっ……」
――――こ、この体勢は……
転んだ拍子に、俺はちょうど相馬を押し倒すような格好になってしまったようだ。
まずい、早く離れなければ……!

「待って、田村……」
起き上がろうとしたが、相馬の両腕が俺の背中に伸びてきてそれを阻む。
ど、どうしたんですか相馬さん……
そんな、抱きしめるようなことをされたら、俺は、俺は……どうにかなってしまいそうだ……
「今日の田村、さっきからずっと変だよ……」
ばかやろう、俺だって男だぞ。そんな態度をされれば変にもなろうというものだ。
心臓の鼓動がかつて無いほどに高まっているのが自分でも分かる。
「あのさ、じゃあ……田村はあたしのこと女の子として見てくれてるって思っていいの?
 あたしのこと好きになってくれるかも……って期待しちゃってもいいの?」
そ、それは……
いや、自分でも分かっている。俺は既に相馬がどうしようもなく好きなのだ。
だが、俺には松澤がいる。そして相馬を思う気持ち以上に俺は松澤に恋している。
俺は卑怯なのかもしれないが、これが偽らざる本心なのだ。
そんな思いが頭の中で逡巡して、問いかけに答えられずに悩んでいると、
目の前の相馬が……目を閉じた。
これは、ひょっとして……ドラマや漫画でよく見るあれですか?
せ、せ、接吻を要求している場面なのでしょうか?
お、俺は、どうすればいいんだ……
頭に血が上ってまともな思考ができない。
何も考えられないまま、相馬に口付けをしようと体が動き始めたところ、

「ただいま〜」
部屋の外から聞こえる声。これは、相馬母の帰宅か?
ガンッ!
その途端、目から星が出た。
相馬がびっくりして起き上がったせいで、見事に額と額をぶつけて大衝突。
俺は涙目で額を押さえて蹲り、相馬も同じくクッションに顔をうずめて突っ伏している。
哀れ、先ほどの甘い雰囲気は完全に消えてなくなってしまいましたとさ。

……気まずい。
結局俺たちは向かい合って乾いた苦笑いをしているしかなかった。
しかし冷静になって思い返せば、すんでの所で松澤を裏切らずに済んだのだ。
その点に関しては相馬母のタイミングに大いに感謝すべきであろう。
それにしても、ちょっともったいなかったかもしれないな……

その後は帰ってきた相馬母に色々と詮索されたのだが、
やましいことは……一応何もなかったのだ。
ただ、あのとき相馬母が帰ってこなければどうなっていたのかは知れないが。
相馬と相馬母に見送られて家を出た後も俺の悩みは尽きない。
やっぱり、あのときの相馬の様子は……キス以上もOKっぽい雰囲気だったような……
いやいやいかんいかん。雰囲気に流されてしまうのが俺の欠点だ、反省しよう。
松澤よ、俺はもう、お前を絶対に裏切らないからな!

だがしかし男の悲しい性よ、相馬を自転車の後ろに載せたこと、
そして相馬を押し倒して抱きつかれた感触を思い出すと悶々としてしまうのだ。
ついつい相馬をオカズにアレをナニしてしまうのは仕方の無いことである……
ああ、松澤を裏切らないと決意したばかりだというのに、
俺はなんて弱く惨めで卑劣な男なんだ……

…………ふう、朝か。
昨晩はちと頑張りすぎたようで寝不足だ。
ああ、ごめんよ松澤……こんな俺を許してくれ……
明日はちゃんとお前を(脳内で)相手にしてやるからな……

「ちょっと雪兄、どうしたの?目に隈できてるよ!」
孝之よ、まだ子供のお前にはこの気持ちは分かるまい。
「なーに、男には悩まねばならぬ夜というものがあるのだよ……」
若き雪貞の悩みとでも呼んでくれ。一文字変えれば若き童貞の悩みとなるのは秘密だ。
さて、今日も学校に行くか……

「……お、おはよう」
「おはようございまーす」
お隣さんと挨拶を交わし、今日は相馬とどう接すればいいのかと考え込む。
なにせ昨晩は、俺の脳内であられもない痴態を演じてくれたのだ。
「……おはようってば」
「おはようございまーす」
ああ、いったいどんな顔をして相馬と会えばいいのやら……
「ねえ田村、聞いてるの?」
チリンチリンチリンチリン!と後ろでベルが鳴り響く。
も、もしかして、これは……と恐る恐る振り返ってみると――相馬がいた。
「なによ田村、幽霊にあったみたいな顔して、そんなにあたしと会ったのが嫌なの?」
そりゃあ驚きますよ皆さん。悩んでいる原因の張本人が目の前に居たんですから。
「そ、相馬、お前、何でここに……」
「……あのね、今日から田村と一緒に学校行こうと思って……迷惑だった?」
いやいや、迷惑なんてとんでもございませんが……ちょっと心臓に悪い。
しかし、相馬は実に嬉しそうに俺に付き添ってくるのだ。
ああ、相馬さんよ、そんな可愛らしい乙女のような顔をしないでくださいな。
松澤を裏切らない決意が早くも揺らいでしまいそうですよ。
そんな嬉しくも悲しい悲鳴を心であげながら、
俺は再び松澤と相馬を両天秤にかけて、自己嫌悪に陥り悶々と悩み続けていたのだった。




※このSSは以前別所に投稿したものの再掲です。


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