「鈴、今朝はずいぶんゆっくりしてるね。パートは休みなの?」
「いや、昨日辞めてきた」
「また辞めちゃったんだ……」
「あのスーパーは残業しても残業代を出さない悪徳業者だったからな」
今までも何度となく繰り返されたこの光景。
鈴は大学を出てから一度は就職したものの、仕事が面白くないといって数ヶ月で辞めてしまった。
その後も幾つかのアルバイトをやったものの、どこも長続きせずに職に就いては辞めてを繰り返し、家賃が払えなくなってアパートを追い出された後はずっと僕の家に住み着いてしまっている。
「鈴、こんなことは聞きたくないけど、去年の年収はどれくらいなの?」
「……はちじゅうまんえんくらいだな」
これは酷い。所得税も住民税も非課税だなんて。
「はあ……こんなんじゃ鈴が心配でおちおち結婚もできないよ……」
「うっさいっ、早く会社に行けっ、遅刻するだろっ!」
「もう、分かったよ……」
半ば追い出されるように会社に向かう僕。
こんな鈴との同居生活を始めて早七年目。再来月には僕ももう三十路の大台だ。
最初は鈴に恭介の所に行くように説得して、一度は鈴もそれに従ったのだけれど、それから一週間も経たないうちにまた僕の家に舞い戻ってきてしまった。
鈴曰く、毎日のように自立しろ、男を見つけろと説教されるのが嫌で逃げてきたらしい。
そんな鈴をほいほいと受け入れてしまう僕は甘いのだろうなとは思いつつも、やっぱり鈴のことは放っておくわけにはいかないのだ。
プロポーズとは言わないまでも、「鈴を守って生きる」と約束した手前無下に扱うことも出来ず、惰性的な生活を今までずっと続けてしまっている。
まあ、僕もそこそこいい会社に入れたおかげで鈴(と鈴が拾ってきた猫たち)を養っていくには問題ないくらいの収入があるし、仕事に忙しい僕に代わって家事を色々と引き受けてくれる鈴の存在はそれなりに助かってはいるのだけれど。



「よう、邪魔するぜ」
その日の夜、恭介が久しぶりに酒でも飲まないかといって僕の家に押しかけてきた。
「鈴、今度の仕事は続いてるか?」
「それなんだけどね、また鈴が辞めちゃったみたいなんだ……」
「なんだ、またかよ……」
毎度の事ながら恭介も呆れている。
それはそうだろう。たった一人の妹が定職にも就かず、交際相手の噂も聞かないとなれば、誰だって心配するのは当然だ。
「恭介からも何か言ってやってよ、僕にはもう手に負えないよ」
うーむ、と頭を抱える恭介。
まあ、鈴が恭介にこの手の説教をされるのはいつものことだし、今までも何を言おうが鈴の生活はまったくもって変わらなかったのだけど。
「お前、仕事が駄目ならせめて永久就職はどうだ。結婚する気は無いか? 誰か仲のいい男友達とかいないのか?」
「そんなのいない」
あっさりと否定する鈴。もうすぐ三十路の独身者が威張って言えるようなことではないと思うんだけど。
「そういえば鈴、この前食事に誘われたバイト先の後輩とはどうなったの?」
「ん? あー、あいつか」
少し考える仕草をして、ようやく思い出したような反応をする。
「あいつは食事の後にホテルに誘ってきたから蹴っ飛ばして帰ってきた」
「ああ、そうなんだ……」
またもや頭を抱え込んでしまう。
こんな態度ばかり続けていると、鈴には永遠に恋人はおろか、男友達すらできないのではなかろうか?
「はあ……こんなんじゃ鈴が心配でおちおち結婚もできないよ……」
この言葉も何度も繰り返してるうちに、すっかり僕の口癖になってしまったようだ。

「まったく、いつまで経っても俺を心配させやがって」
「恭介もそう思うよね……」
「いや、お前もだよ、理樹」
「ええっ?」
突然僕に向けて話題が振られる。
「お前だっていつまでも鈴を言い訳にして結婚してないじゃないか、お前だって結婚する当てがあるのか? 彼女でもいるってのか?」
「そんな話は全然聞いたことがないな」
横から鈴が口出しする。さっきの復讐とばかり、今度は僕を攻め立てる側に回ってきたみたいだ。
そりゃあ確かに今までずっと彼女なんてできたことなんかないけれど、それもこれも全ては鈴が心配だからだ。
「理樹、どうせお前もいい歳して童貞なんだろ、鈴のことを心配する前に自分のことを心配したらどうだ?」
「そうだぞ、結婚できないのをあたしのせいにするな」
うぐっ、図星だ。痛いところを付かれてしまって反論できない。
「なあ、いい加減お前ら二人でくっ付いちまえよ。それなら俺も肩の荷が下りるってもんだ」
「はぁ?」
「何だって?」
恭介の言葉に僕と鈴が声を揃えて驚きの声を上げる。
僕が鈴と結婚? そんなこと、今まであんまり考えたことも無かった。
「ま、俺の言ったことも少しは考えておいてくれや。っと、俺はそろそろ帰るぜ」
そんなこんなで、結局言いたい事だけを言って恭介はさっさと帰ってしまった。
いきなりの恭介の提案に、唖然としている僕たちを取り残したまま。



「理樹、お前は童貞なのか?」
「……いきなり変なこと聞かないでよ、鈴」
ずっと物思いに耽った様子をしていたと思えば、いきなり発した言葉がこれだとは。
さっきの恭介の言葉を真に受けて変なことを考えているのではないだろうか。
「あたしは本気で聞いているんだ。理樹は童貞なのか?」
「……そうだよ」
自分でも情けないとは思うけど、鈴に隠し事をしたって仕方がない。
あれだけずっと一緒に過ごしていれば、僕に彼女が出来たことがないのも鈴はちゃんと知っているのだから。
「そうか、実はあたしも処女だ」
「まあ、大方そうだろうとは思ってたけどね」
というか、鈴に男性経験があると言われる方がむしろ驚きだ。
「だからな、あたしたちがせっくすをしよう。そうしたら何もかもうまくいくんじゃないか? そんな気がしてきた」
「えええっ?」
なんだ……? どうしてこんな話になっている?
「あたしたちくらいの年の人間はみんなやっているんだぞ? 何でそんなに驚くんだ?」
「ちょっと待ってよ鈴、そもそもこういうことは好き合ってる男女がするべきことであって……」
ああ、何を言っているんだ僕は。こんな学生みたいな言い訳をするなんて、相当僕も動揺しているらしい。
「だったら、理樹はあたしのことが嫌いなのか?」
「いや……好きだけど……」
「じゃあ問題ないな。あたしも理樹のことが好きだ」
「そんな、簡単に……」
このまま流されていいのだろうか?
鈴の言うように、あっさりこの状況を受け入れてしまっていいのだろうか?
そんな心の動揺とは裏腹に、かすかに残っている古い記憶の残滓から似たような光景が思い起こされ、その思い出が鈴を受け入れてしまえと盛んに僕の決断を後押ししてくるのである。
「わかった、鈴。結婚しよう」
「それもまた唐突だな……」
どうしたことか、自分でも驚くほどにさらりとその言葉が口から出てくる。
「でも、理樹ならいいな。よし、受けてやる」
そして、鈴もまた僕に負けず劣らずあっさりとプロポーズを受け入れてしまう。
何故だろう。こんなことを言うのは初めてなのに、この時の僕には鈴がこの突然のプロポーズを受け入れてくれるだろうという絶対の確信があったのだ。

「どうした、何でそんなに笑ってるんだ?」
「ああ、昔にこんなことがあったような気がしてね。いや、本当は無かったはずなんだけど」
頭に浮かんだのは学生服を着た若き日の鈴。僕に向かって振り返り、あたしたちが付き合おう、と言ってきた姿。
不思議だ。当時の僕らにそんなことは無かったはずなのに、まるでそれが本当にあったことであるかのように思い出されてきてしまう。
「奇遇だな、それはあたしもだ」
「そっか、それは奇遇だね」
そう言って、僕はパジャマ姿の鈴を抱き寄せる。
不思議なことに、今までそんな目で見てこなかったはずの鈴が今になって突然魅力的な女性として映ってしまうのだ。
僕に身を任せて目を閉じた鈴に対し、恋人としての口付けを交わす。
この夜を境に、僕たちの同居生活はまた違う意味を持ったものに変わっていったのだった。


◇ ◇ ◇


「理樹、赤ちゃんができたらしい」
「ああ、もうそんな時期なんだ。今度は誰?」
毎年この時期になると、夜ごとに発情した猫の鳴き声が溢れてくる。
今飼っている猫はちゃんと去勢や避妊手術をしているけれど、鈴が餌付けしている野良猫の出産には何度か立ち会ったことがあるし、以前に避妊をしてなかった飼い猫が子供を産んでしまって子猫の引き取り先に四苦八苦したこともある。
さてさて、今度はどの猫が子供を産むのだろうか。
「猫じゃない、あたしだ」
「アタシって猫なんていたかな? ……って、鈴の子供?」
「そうだ、あたしと理樹の子供だぞ。嬉しくないのか?」
「そんなの、嬉しいに決まってるじゃないか!」
そうか、いよいよ僕も父親なのか。僕は幸福な家庭を幼い頃に失ってしまったけど、生まれてくる子供には絶対にそんな思いをさせないようにしたい。
この喜びに包まれながら僕は、鈴のお腹が目立たないように結婚式の日取りをもっと早めなければなと考えていたのだった。




※このSSは以前別所に投稿したものの加筆修正版です。


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